五、遠山さまの伝説

遠山谷には、昔この地を治めていた領主遠山さまの伝説が、たくさん残っています。
そのいくつかを、みなさんにお話ししてみようと思います。

  遠山さまのご紋               

 昔、遠山土佐守が岡崎に出て、徳川家康に初めてお目どおりしました。
そのとき家康は、土佐守の労をねぎらい、お酒やさかなを出しておひるをもてなしました。
ところが、土佐守は食事をするとき、左手で茶わんをかくすようにしてごはんを食べ、食事
が終わると、茶わんのへりに二本のはしを渡しておきました。家康は、土佐守が退出したあと、
人を使いにやり、土佐守の不思儀なしぐさについてたずねさせました。
土佐守はそれに答えて、

「これがいずれも信州遠山谷の習慣で、ほかに理由はございません。遠山は山と谷ばかりでし
て、たんぼが少いので米がとれません。わたしもそうですが、上下を問わず麦または粟を常食
としています。ですから貴い人の前で食事をとるときは、これをはずかしく思い、かくす習慣
があります。先ほどは思わずあのような不作法なことをして、誠に失礼をいたしました。」
とのべました。

 翌日になると、家康からもう一度城にくるようにということで、土佐守が恐る恐る登城しま
すと、家康は
「昨日、その方が申しのべたこと、いかにも気の毒である。これからは上穂領(上伊那)千石
を加増し、その方に与える。また食後、茶わんの上にはしを置くは、世にも珍らしい作法であ
る。今日よりその方の家紋を、そのかたちのように
といたすがよい。」
とお言葉を賜った。

 家康の前で思いがけない加増と面目をほどこした土佐守は、意気ようようと居城和田に帰り
ましたが、それ以来、このご紋が使われるようになったと言われます。


  遠州佐久間の二本杉

 岡崎の家康から加増をおみやげに、居城遠山への帰途についた遠山土佐守は、遠州の佐久間
峠でひるめしを食べました。

 土佐守はめしを食べたあと、この峠でしばらく休みをとりました。
もうここまでくれば、なつかしい居城和田も一歩一歩近くなる。
家康に会って面目をほどこし、加増まで賜わった土佐守の心は喜びでいっぱいでした。
ふと思いついた土佐守は、ひるめしに使ったはしを峠の土に突きさし、大声で
「われ立身するか、なんじが立身するか。」
と叫びました。
きっと土佐守のまぶたには、家康から賜った家紋のことが思い浮かんだに違いありません。

 土佐守は、元和元年(一六一五年)和田城で死にましたが、この二本のはしは不思儀なことに、
根が生えてすくすくとのび、やがて大木となったそうです。
これがいまも伝えられている、佐久間の二本杉のいわれとされています。

 遠山の盆おどりのうたに、『遠州佐久間の二本杉ごろじ、信濃こいしと葉を返す。』と言うのが
ありますが、このうたの意味は、植えた主(土佐守)が葬られている信濃の空がこいしくて、風が
吹くたび葉を北の方に返すというものです。

 ところでこの二本杉は、佐久間峠(佐久間町)の二本杉峠をはさんで、東西に並び立っておりま
した。
この二本杉は明治元年に伐さいされましたが、あまり大きいため根もとから切りはなすことができ
なくて、まわりに足場を組み、上の方からだんだん切りとり、用材にして運んだと言います。
いまでもこの峠には、この大杉の切り株が残っているそうです。


  焼き栗と土佐守

 遠山土佐守は、三代の城主のなかでは一番やり手の殿さまで、いくさも上手だったが、治政にも
すぐれていたと言われます。
この土佐守については、いろいろなお話しが伝えられていますが、こんな面白い伝説も残っています。

 それはいまから三八〇年も前のことですが、ある日のこと、土佐守のお仲間しゅうの集まりがあり
ました。
そして、そのなかのひとりの殿さまが、土佐守に向かって
「信州の遠山では、たくさんとれる栗を焼いて常食としているときくが、土佐守のお手前を是非みせ
てもらいたいものだ。」
とからかいました。
土佐守は内心むっとしましたが、顔には出さず
「それはいとも安きこと。」
と直ちに在所遠山に飛脚を立て、生栗を取り寄せました。
 そ
してお仲間しゅうにふれを出し、大広間に集め、大きな火鉢に炭火を起こしました。
土佐守は具足に身をかため、いきなり大火鉢に生栗七、八升を投げ入れたからたまりません。
座敷中に火がとび散り、栗のはぜる音はあたかも雷の落ちたようだったと言います。
そのためお仲間しゅうは色を失い、耳に両手をあてるなどあわてふためき、大変な騒ぎとなりました。

 土佐守がやったことは、良いとは言えませんが、土佐守には男としての意地がありました。
それは山国の厳しさを知らないお仲間しゅうへのみせしめだったのです。
戦国の世を生きた土佐守の人間像をかい間みる思いがいたします。

 

荒武者新助

遠山土佐守の廉(注)に、遠山新助景道という人がありました。
新助は木沢に居住し、北の守りを固めていました。

この新助という殿さまは、音にきこえた荒武者でした。
「関伝記」という本がありますが、この新助について次のように記しています。
新助景道は剣術の達人の上、かつ弓の名人でした。
ある日のこと、敵方がはかりごとをして、新助の弓の力がどのくらいかをためそうとしました。
そこで弓のまととして、鍬八枚を重ねたものを作りました。
ところが新助の射た矢は、ものの見事にこれに命中し、八枚の鍬をつき通し、敵方を驚かせました。

 また「熊谷家伝記」という本にも、新助のことが書かれています。
それによると元和六年十二月のことでした。
坂部(天竜村)に新助が訪れ、こともあろうに再建をした観音堂に、大鉄砲を打ちこみました。
驚いた堂主長兵衛が、
「仏をねらう天命知らずの無法者は、いったいどこのどやつだ。」
となじると、
「どこのどやつとは舌が長い。おれは桓武天皇の末流で、遠山遠江守景広が三男新助景道だ。仏を目
当ては承知の上でやったことだ。」
とどなり返しました。
この恐れを知らない無法ぶりに、堂主長兵衛も返す言葉もなく、そのままにしておいたと記されています。

 また熊野城跡(小道木)の入口のところに、新助の踏み石だというのがあります。
昔からの伝説によると、新助がこの台上から北方の中根城に向かって、自分の弓の強さをためしたとき、
足をかけた石にその足あとがついたとされています。
よく見ると風雨にさらされた丸い石に、たしかに人間の足あとらしいものがあります。
それがはたして新助のものかどうかわかりませんが、強気無法者の新助らしいお話しです。

 この新助は元和八年(一六二二年)四月七日、大鹿村で暴徒によって殺されました。
これが有名な石子詰という事件で、新助が江戸から帰る途中のことだと言われています。
新助が大鹿村の大河原というところにさしかかったときのことだそうです。
待ちぶせていた暴徒らは、山上に石矢を仕かけ、谷間には数人のりょうしに金をやって万全の用意をと
とのえていました。
 そんなこととは知らず、新助の主従が通りかかるといっせいにおそいかかり、山上からは大木、大石
を切って落しました。
これではどんなに新助が強くてもたまりません。
傷を負った新助は、それでもひとり立ちあがり、大音声をはりあげて
「どこのどやつなるぞ。」
と大刀を引き抜いてどなったが、数十挺の鉄砲に打ち抜かれ、全身はちの巣のようになって、ついに討
死にしたと言われています。


 注 新助は、遠山土佐守の叔父にあたる。廉は、廉士(清廉な人)を意味するのか?(ホームページ掲載者

 

  み園のあたごさま

 木沢の八幡社の北方に、み園と呼ぶところがあります。
ここのすみに「あたごさま」と呼ぶ小さなほこらが建てられています。
このほこらには、昔から次のような伝説が残されております。

 元和年間のことですが、遠山土佐守の若殿さまが、百姓一揆の者に追われて、ついに殺されてしまい
ました。

若殿さまについてきた家来たちは、その亡きがらを埋める場所をさがして、このみ園まで落ちてきまし
た。
そして人に知られないように、若殿さまの亡きがらと、身にまとっていたよろいや刀などを地下深く埋
めました。そして家来たちは、小さな石をその上に置き、いずこかに落ちて行きました。

その後、地主さんの前沢家の先祖がここに小さなほこらを建ててまつったのが、いまの「あたごさま」
だと言われています。ところが不思儀なことが起きました。
建てるときは、たしかにとびらの方を東に向けたのに、一夜明けてみたら、ほこらは南の方に向きを変
えていたのです。それからなんどもほこらの向きを直したが、いつの間にか南の方に向いてしまうのです。
そこで、これはきっとおとうさんの土佐守をまっってある八幡社が南の方にあるから、それをしたって向
きを変えるのだろうと言うことになったそうです。
いまでもこの「あたごさま」は、木沢の八幡社の方向に面して建てられております。

 

  便りが島

 本谷川を奥深くさかのぼって行くと、西沢岳のふもとに「便りが島」という珍らしい名がついた島があ
ります。
本谷川べりの島で、周囲がおよそ四キロくらいありますが、いまは草木が生い茂って、かなり荒れ果てて
います。

この島には、昔からこんな悲しい伝説が残っております。

 領主の遠山さまがほろびたのは、元和年間のことですが、このとき殿さまの奥方が、侍女とともに城を
のがれて道に迷い、この山中にたどりつきました。
聞こえるものは、本谷川の瀬音と風の音ばかりです。
夜は近くまでクマやイノシシもやってきます。
こんなわびしいくらしのなかで、奥方は
「ふたたび世に出るのぞみは無くなったが、せめてさとの便りが聞きたい。」
といつも嘆いておりました。
そのことからこの島が「便りが島」と呼ば
れるようになったと言われております。

 また別のお話しもあります。
それはこの島で遠山さまをほろばすために、おもだった百姓たちが一揆の相談をしたところで、その名を
石に切りつけたところだとも言います。
いずれにしても「便りが島」という名には深いいわれがあるような気がします。

 

  美漉へのがれたお姫さま  
                        ・

 このお話しも、遠山さまがほろびたときのことです。
土佐守さまのお姫さまが、城をのがれて川合の木下家の先祖に助けを求めました。
そこで木下家の先祖は、だれにもわからないようにミノでお姫さまをかくして、家につれて帰ったそうです。

 お姫さまは一家のなさけに感謝しながら、藤をつむいで糸をつくりました。
お姫さまは七日間、こんな風にして過しておりましたが、八日目の朝になると
「あぶないところをお助けいただいて、ほんとうにありがとうございました。百姓一揆も大分治まったようで
すし、いつまでもおなさけにあまえているわけには参りません。おなごりおしいが、美濃の苗木に親せきがあ
りますので、そこを頼って参りたいと存じます。あぶないいのちをお助
けいただいたのに、わたしには何も差
し上げるものがございません。せめてものお礼として、この糸をおいて行きます。わたしがいずれ世に出る日
があったら、またこの恩に報ゆることもできましょう。どこにいても、この家に生まれた女の子は美女に育つ
よう、そしてお産のときにも不幸にならぬよう祈っています。」
 こう言ってお姫さまは、遠い美濃の国に落ちて行きました。

 その後のことですが、このお姫さまは木下家の恩を忘れずに、正月がくると必ずお米一俵とお魚を毎年送
りつづけたと言われております。

 あとがき